より高きを目指して
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而も学費は月々嵩むのみで、修業を継続することは、益々困難となり、中途退学を余儀なくされる状態にあります。また最近の高等女学校卒業者は、戦時中勤労動員によって勉学の暇もなかったものが大多数を占めています。これらの欠陥を幾分なりとも補い、若い女性の向学心に応えようとして計画したのが、静岡女子高等学院の設立であります。私はもともと本県の産であり、過去20年間静岡高等学校教授として、育英に携わった関係上、最も静岡の地に親しみを覚え、愛着を感ずるものであります。生来甚だ不敏ではありますが、今までの永い体験を活かし、当市に於ける女子高等普通教育の基礎を築きたいと念願しています。幸に大方諸賢の御支援と御庇護とを賜わらば、独り私のみの喜びではありません。資材不足の折柄遽かに新校舎を建設することは困難でありますから、とりあえず、静岡大岩臨済寺の一部を借りて、授業を開始することに致しました。荒涼たる焼野原のバラック生活に若き女性の心は、ともすれば荒び勝ちになると思います。名刹臨済寺は碧なす駿河の海原を控え、学都として好適の地であるに拘らず、若き世代を担うべき女子の高等普通教育を授くべき、ただ一つの機関すらなかったことは、如何にも不思議なことであり、遺憾なことであります。これが為に向学心の盛んな女性は、家を離れて遠く東都に遊学したのでありますが、戦災後の東京は宿るに家なく食うに糧かてなく、の静寂な明窓の下、浄机を並べ趣味豊かな講義に耳を傾け、或はさまざまの優麗典雅な技芸を習得し、和やかな心の糧を得ることは、今日真に意義あることと思います。この趣意書は、元県立高女校長三輪笹市氏の紹介により、戦災のため柳新田に疎開していた田中屋印刷所に依頼して印うことができる。  創立者が自ら綴った『常葉学園創立十年史』には学園建設の夢を次のように述べている。 「私は予てから何人にも制せいち肘ゅうされず、小なりと雖も一国一城の主あるじとして、自由に思うままの理想の学園を建設しようと考えていた。齢既に還暦を迎えようとし、日暮れて途遠しの感はあったけれども、退官を機会に日頃の念願を実現しようとし、当時まだ大学や高等学校に在学中であった子等と相謀り、静岡女子高等学院を建設することとした」と。以上から創立者の建学の決意を窺えるのだが、学院建設への経済的裏づけは全くなかった。ただ、三女が戦時中県立静岡高女に在学していたが、ほとんど勤労動員で工場に駆りたてられ勉強らしい勉学園建設への夢静岡女子高等学院設立への決意と苦悩11空襲で焦土と化した静岡市街〈昭20・6〉  刷刷すしるたなのどで、あ当る時。の裏物面資に不も足志の願状者況票ををう印窺かが

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