れ、早速同氏を帯同して浅間神社宮司菅貞好氏に懇請した。幸い同社の北廻廊の借用が許され、やっと安堵の胸をなでおろしたのである。浅間神社は古くから駿河国の総社として信仰を集め、戦前までは国幣小社として木花咲耶姫尊を祀る壮麗な社である。戦後は国費による保護対策も解体され、参詣する人影もなく神社を預かる菅宮司としては、その運営に最も苦悩していたのであった。ともかく菅貞好氏の厚意によって仮校舎の目処がついたことは、真に幸運なことであった。小川氏の外に元小学校長であった吉住総三郎氏が事務員として協力したが、いわゆる専任職員は僅か3名から出発した。小川氏は僅か半年ほどで退職しその後県観光協会に移ったが、学院創業期には創立者を扶けユニークな校風の樹立に貢献した。静岡女子高等学院は、戦時中勤労動員によって、勉学の暇のなかった旧制高等女学校の卒業生を再教育することを目的とした。今日からいえば、短期大学にやや近いような内容を趣旨としたものであった。しかし、世間では花嫁学校と呼んでいたようである。当時の東京日々新聞は「女性へ高等学校」という見出しで開学を報道している。6・3制の発足以前のことであり、勿論短大などなく社会た。創立者のこうした開学の着眼はなかなか先見の明があったというべきである。昭和41年に常葉女子短期大学が設立認可され、こうして初心の「建学の精神」が、実現し貫徹されたことは、であろう。ともかく浅間神社の北廻廊を借用することはできたが、生徒用の机は1脚もなく、当時戦災直後の静岡では新調もできなかった。止むなく富士宮市の知人増田三郎氏に依頼して、裁断台数十脚を作成し、黒板は浅間神社から借用し、下駄箱は臨済寺から譲り受けた。その他テーブル・座布団・茶器等の小備品は一切木宮宅の私物を持ち込んで急場をしのいだ。志願者の受付事務は安東の創立者の自宅で、同年4月中旬から5月にかけて行った。最初は30、40名程度の学生と円卓を囲んでゆったりと教授することを考えていたが、250余名の志願者にむしろ驚いてしまった。そして5月20日から3日間にわたり、自宅を面接試験場にあて、一人ひとりと親しく面接した。受験者は静岡・清水を中心とし、東は沼津辺から西は磐田辺までの旧制高女を卒業した良家の子女で、向学の熱意に燃えていたから、ことごとく収容して教育する方針を定めた。かくて238名の入学生を桜・藤・楓・橘の4組に分け、桜と藤組は月水金に楓と橘は火木土に登校させ、それぞれ隔日に授業を行うこととした。かくて華々しく昭和21年6月8日の記念すべき開校式の日が来るのを待つばかりとなった。自宅の仮事務所では、三男栄彦が出願手続き事務を手伝っていた。父親の創めた学院の開校式までの雑務や段どりが気になったが、ひとまず京都に向かった。下宿は父の静高時代の教え子兼岩正夫氏の世話で修学院の西沮沢町の2階建の1間を借りることができた。兼岩氏はのち東京教育大教授となり、西洋中世史の権威となった。下宿の2階からは、比叡山の全容が目前に迫り、いかにも京都の郊外を思わせるすばらしい眺めであった。6月下旬のある日、大学から帰った所、机上に分厚い父からの封書が届いていた。早速開封すると、気になっていた学院開校の様子が、几帳面な父の筆で綿々と綴られていた。 「6月8日の土曜日、午後1時から浅間神社の大奉拝殿に於い華々しく開校式樓門から展望した浅間神社北廻廊で私は学考人えとてしもていのな冥い利時と代いでうあべっき静岡女子高等学院設立への決意と苦悩13
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