より高きを目指して
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脱落していくのではないかという危き努力や配慮を重ねても、実際には何の資格も得られぬ無許可の学院では、到底適齢期で最も多感な乙女たちを引きつけておく事は至難であった。予想通り2学期になるや50名ほどが退学脱落し、180名ほどに減っていた。私学経営の厳しさを知らなかった創立者には、初めての苦い体験であった。新学期を迎えて、生徒は激減した   も変わらぬ常葉であるように、節操の固い、そして三千代のように、賢明にして内助の功を挙げ得る女性に育成することを念願したからである……」と。静岡女子高等学院の最初の第1学期も瞬く間に過ぎ去り、暑中休暇に入ったが、引き続き31日まで10日間の夏期文化講座を開催し、毎日2時間程度有徳の人の修養話を聞いたり、専門家を招いて文学論や芸術論の講義をして貰ったり、あるいは手芸などの講習も行った。そして、8月に入って1週間に亙る海水浴を興津海岸で行った。当時はまだ元勲西園寺公爵の別邸「坐漁荘」が海岸通りにあり、すぐ近くに有名な「水口屋旅館」があった。この旅館の一間を借り受け、連日40、50名の有志生徒が参加して、真夏の陽光を全身に浴びて、楽しい海水浴を過ごした。中旬には廃物利用の講習会なども開いたが、これは休暇中と雖も、そのまま自由に放置すれば、生徒たちの学院への馴れが日毎に薄れて途中でむしろ一段の勇気を振るい起して、少しでも設備の充実に力を入れようと考えた。設備といえば、数十脚の机と借用中の黒板位のものしかない。授業開始を知らせるベルもなかった。当時は静岡市内は勿論、興津から金谷辺まで金物屋を探し廻ったが、真鍮の小型振鈴を発見できなかった。止むなく創立者が十数年も前、伊勢松阪の本居宣長大人の鈴の屋の遺跡を訪ねた時、記念に買い求めて来た素焼の小さな鈴を号鈴として用いた。時刻がくるたびに鈴を振るとチリン・チリンと風流な澄んだ音が境内の一隅で響いた。ある日創立者は、女生徒たちが放課後や昼休みにグループで美しいコーラスをしている風景を見て、何としてもピアノを1台購入してやりたいものだと考えていた。その後、創立者は戦後で十分操業していなかった浜松の日本楽器株式会社を訪ねて、いろいろ交渉したが、アップライトピアノでも新品は3万円程度出さねば買えなかった。当時学院の授業料が1か月30円のことを思うと3万円は、相当の金額である。学校財政からも3万円の支出は困難であった。そこで止むなく中古ピアノを探し求めることとした。そんなある日、市内の某大工場の工場長の奥さんの遺愛のピアノが8千円で売物に出ていることを聞いた。そこで創立者はともかく八方手を尽くし、やっと8千円の現金を調達して、早速工場長宅を訪問した。ところ私学経営の厳しさピアノ購入のエピソード静岡女子高等学院 思い出の興津海水浴〈昭21・7〉が惧ぐ創か立ら者ではあ決っしたて。失し望かはしし、なこかうっしたた。音楽教育のはしりこのピアノは創立者が苦労して購入した思い出の代物である静岡女子高等学院設立への決意と苦悩15

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