より高きを目指して
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が、工場長はやや当惑したような顔付で「木宮先生!既に某映画館など数か所から高値で買い入れたいという申し込みがあったので、残念ながらお譲りできかねることになってしまった」というすげない返事であった。創立者はそれは少々約束が違うし、やっと8千円もの大金を揃えて懐にして来たばかりだから、簡単に引き下がるわけにはいかなかった。「そんな不義理なことを言わず、是非譲って下さい。高値といいますと、いくらならお譲りできるのですか」「映画館の方では、1万円以上で欲しいということです」いくら嘆願してもなかなか、工場長は容易に聞き入れてくれそうもなかった。そこで創立者は「このピアノは亡くなった奥さんが毎日弾いて楽しんだ遺愛の品でしょう。たとえ高値で買い取られても、遠くの映画館などに持ち去られてどうなるか分かりません。私の学院へ譲って下されば、毎日美しい清らかな生徒たちに愛撫なされこるとでをし述ょべうて。、亡暗くになあっなたた奥がさ少ましのば霊かも喜りばのれ金ま欲すに」眩くらとん。でこ尊んい遺愛の品を売り込むならば、奥さまは草葉の陰で、歎き悲しむことでしょうと諭したのである。さすがの工場長も暫らく考えていたが、「先生よくわかりました。約束通りお譲りしましょう」と言って即座に8千円で譲ってくれたのである。かくて創立者が出勤する頃には、音楽好きの生徒が早朝登校して練習するピアノの音が朝もやの中から聞えてくるし、昼ともなれば生徒たちの美しい合唱のメロディーが賤機山にこだまして、何となく学園らしい和やかな趣を添えて来た。このピアノは明治初年ドイツから輸入した部品で横浜の某会社が作製したものであり、今日ではまことに珍しい骨董的逸品だと、河合楽器の専属調律師の鑑定をうけた程の代物である。既に引退した学園の歴史を秘めるこのピアノは今でも学園本部の資料室に大切に保存されている。創立者は予てから学院歌を制定したいと考えていた。そのころ国文学の講師をしていた歌人本告亮一氏に、建学の精神の象徴である橘の花を折り込んだ学院歌の作詞を依頼した。かくて推敲を重ねて完成したのが次のようなすばらしい歌詞であった。一、       二、       三、       作曲は作曲家の泰斗津川主一氏に依頼し、これまた女生徒に相応しい格調高いメロディーで、今日では学園歌として歌い継がれている。この学院歌は、聖武天皇の御製に基づき我が学園の象徴である橘をたたえ、駿河の海の真珠白珠の如く心を磨き、富士の白雪の如く純らに生きむことを謳った歌詞で、優麗にして典雅しかも新鮮な趣がある。これを歌う者、聞く者おのずから心身の浄められるような情感を呼ぶ思いがある。いにしへの奈良のみかどのその葉さへ実さへ花さへ常葉とぞたたへ給ひし橘を鑑にはせむうちよする駿河の海の岩かげにこもりしづきて光さす真珠白珠玉のごと心磨かむ晴れわたるみどりの空にまさやかにそそる富士のねしろ妙にかがよふ雪のけだかくも純らに生きむ学園歌の制定16       

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