より高きを目指して
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女子専門学校を創設するなどの機運もあった。前者は遂に開校に至らず立ち消えとなり、後者も僅か数年にして廃校となった。これによっても、その頃の私学創立の事業が如何に困難であるかが昭和22年度の志願者は前年度に比べて著しく悪く、僅か前年度の入学者にして、さらに1年在学を希望する者は50名であったが、これも数か月の間にしだいに退学脱落して僅かに30名に減じた。一方折か月を待たずして退学する者が相次ぐという情況であった。経営上の困難は次第に加わりつつあったのである。機を見るに敏な学院長は、この難関を切りぬけるために知人藤本ちよ氏を指導者に招き1か年課程の和裁専門部を附設したが、この方も応募者僅か16名に過ぎなかった。それでも学院の建設事業は表面的には一応成功したかの如く見えたらしく、学院と同じ系統の学院創立を模倣しようと試みる者もあった。またT学園の如きは、専門学校令により急遽、窺われる。さて、戦後1年数か月を経過し、世の中も少しずつ落ち着いて来るにつれ、浅間神社でも多彩な神事が行われるようになった。また神前結婚式なども戦前のように復活されはじめて来た。いつまでも北廻廊の仮校舎に居座っていることは、許されない状況になったのである。かくて創立者は小なりといえども、独立の校地と校舎を自力で建設していかねばならない情勢に追いやられていった。学院の将来を思えば何としてもまず校地の買収が急務である。創立者の前にはこの大きな難関を乗り越えていかねばならない運命が待ち構えていた。創立者が建学の理想に燃え私財を投じ全くの自力で出発した学院は、教育面では逐次充実しても、経営面では何の援助もなく誠に心細い状態であった。それでも外面的には華々しく成功しているように見られたので、中には将来の利得を期待して、ミシン数十台を出資してもよいなどと申し出る者もあった。しかし、苦しくとも一国一城の主を理想とした創立者は、教育事業を株式会社でもあるかのように考えている輩やからに対しては、一切の援助を毅然として断ってきた。その頃、突然県の若い役人が訪れ、暫らく対談しているうち、彼は話のはずみから先生の学校は、闇学校になりますと口を滑らせてしまった。静かに対応していた創立者は、余程この言葉に腹を据えかねたらしく、闇学校とは失礼ではないか。私は正々堂々とやっておると珍しく興奮して語気を強めた。五島秀次氏との出会いとその支援   荊の道法人基金への悩み静岡女子高等学院々歌制定〈昭21・12〉 角入学した生徒のうちにも1静岡女子高等学院設立への決意と苦悩五島秀次氏との出会いとその支援17静岡女子高等学院 第1回生たち80名に過ぎなかった。その上

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