不断は極めて温厚な人柄なのに明治生まれの亥歳の一本気な所から、自尊心を傷つけられたのであろう。こんな対話から、闇学校でないためには、財団法人とする手続きが要請された。当時はまだ「私立学校法」などなかったが、公式の各種学校は財団法人の経営形態とすることが必要とされていた。それには基本金10万円を積まねばならなかった。とてもそんな大金の余裕はなく、創立者は早速静岡銀行の某支店に赴き、10万円の借用を申し出たが、無担保では残念ながらお貸しできかねるとのすげない返事であった。後年銀行の支店長が、いくらでも先生なら融資しますからなどと言うと、いや君の所は昔10万円もわしに貸さなんだよ!などといって笑っていた。10万円の基金造成に追いつめられた創立者は、数日後旧制静高の教え子で、当時勧銀支店の次長の許へ赴いた。財団法人の基本金10万円に悩んでいるくだりを縷々説明して、借入方を熱心に頼みこんだのである。恩師の懇請で次長はなんとか先生の願いを叶えたいと思ったが、静銀でできない相談を勧銀でできるすべもなかった。暫らく考え込んでいた次長は、よい方法があります。どこかともかく一晩だけ10万円を借りて来て下さい。それを一日入金して下されば、残高証明書を出しましょう。それを財団法人設立許可申請書に添付さえすれば、一応形式は整います。と、こんな主旨の知恵を与えてくれた。教え子のこの好意ある計らいに感謝しながら帰宅した創立者は、一晩だけでも10万円を貸してくれそうな人物はないかと考え込んだ。結局教え子で資産家の某氏邸を訪ね、借用の目的や一晩だけで直ぐ返金する旨を説明し懇請した。しかし、ひとたび先生に貸したら、とても返還されないのではないかという不安が先だち、1時間以上話しても快諾が得られなかった。遂に創立者は諦めて退去するほかなかった。経済的に全く信用のない創立者の苦悩が続くのである。 昭和22年5月24日保護者会を開いた日は天候も悪かったが、僅か数名しか出席しなかった。余りの期待はずれに些いささかがっかりしたが、少人数のため却って話に華が咲いた。やがて財団法人の基本金問題に触れると、その一人が「先生それはご苦労のことです。ともかく学校建設のためです。そればかりの金ならいつでもご用立します。」ときっぱり言い切ったから、さすがの創立者も驚いた。それは有難いことです。と答えたものの、大風呂敷をひろげる人だくらいに思って余り気にもとめなかった。それから暫らく過ぎたある朝、創立者は新聞を広げて足の爪を切りながら、ふと大きな何段抜きかの広告が目にとまった。どこかで聞いたような会社の広告だが、なかなか思い出せない。「株式会社五島製網」という名である。所在地が榛原郡金谷町という所から、先日の保護者会で大風呂敷をひろげた人のことが、ふと浮かんだのである。早速その時交換したはずの名刺を取り出して見たとこ五島氏との出会い18常葉中・高の新校舎が竣工したころ、水落交番の地から望む〈昭31ごろ〉
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