水落町の約500坪を買収した創立者は、先ず手はじめに、将来の宿直室兼会議室を建てようと考え、23坪ほどの建物を遠藤大工に請負わせた。常葉中学校が創立されてからは、最初の図書室兼職員会議室として使用したから、旧い教職員や卒業生たちには思い出深い教室である。宿直員には創立者の次女故海野田鶴さんが、その頃旅順から徴兵されて行方不明となった夫と別れ、幼い子供3人を伴って、ようやく引き揚げて来たばかりであったから、ここに居住して雑務を手伝うことになった。さて、静岡鉄工所が戦時中青少年の工員たちを教育するために使用した旧校舎が競売にされ、それを23万円でやっと入手することができた。その資金を得るため創立者は約1か月以上も連日、生徒の家庭を一軒て廻った。東は富士から西は磐田近くまで東海道筋を行脚し、創立者の努力と保護者の協力によって、ともかく旧木造校舎の買収ができたのであで半年以上もそのまま放置されていた。五島氏の経済的支援で昭和22年12月の暮れ、やっと取り壊して、その素材を水落町まで運搬する作業が開始された。現場に立ち会った三男栄彦は思い出を次のように語っている。 「現場に赴くと、やや薄樺色がかったセメント瓦が、既に丁寧にはぎとられていた。取り壊した木材や瓦をすぐ隣接の民家の庭を通して搬出しようと、度々交渉したが拒絶され、止むなく工場を迂回してやっと搬出作業を進めた。冬の冷たい、しかも風の強い日であった。馬車に瓦や木材を積んで、馬方が何回となく運搬を繰り返していく。私も道案内をかって馬車に乗って、水落町までの街路を冷たい手を擦りながら馬蹄の響きに耳を傾けていた。生まれて初めて乗る馬車の乗り心地に酔いしれながら、好奇と羞じらいと喜びが交錯した複雑な心境であった。」と。翌23年2月く働いた。焼酎を飲み「きやり」を唄い、賑にぎ賑にぎしく祝った。鳶職の一人が酩酊して翌朝まで寝込んでしまったが、当時はまだそうした職人気質のようなものが残っていた。さて、同じ2月には財団法人設置も許可され、建設事業は着々と順調に進むかに見えたが、ここでまた重大な難関に遭遇した。それは終戦により、明治以来の教育制度が改革され、所謂6・3・3・4の新学制が施行されたからである。昭和23年度からは、従来の中等学校は廃止され、新たに新制中学校、新制高等学校が誕生するこ常葉中学校・常葉高等学校の創設新校舎の建設常葉中学校創設時代の正門入口る一。軒し訪か問しし、て移、築據費金がをな懇い請しの静岡女子高等学院 新築落成式典安倍能成氏を囲む座談会〈昭23・3〉五島秀次氏との出会いとその支援常葉中学校・常葉高等学校の創設2120日に上棟式が行われ、多数の大工や鳶職が寒風のなかを威勢よ
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