より高きを目指して
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  ととなった。従って今までの中等学校に比べて1年間延長されることになるので、静岡女子高等学院の如きは、最早、必要ない存在となりつつあった。従って生徒募集は意の如くならず、ここに一大決心をせねばならない立場に追い込まれていった。そこで、局面を打開するために、3月7日に市公会堂で音楽会を、9日から田中屋百貨店で展覧会を開催した。また、元文部大臣安倍能成氏を招き昼は建設した小教室で座談会を、夜は公会堂で「文化の本質」と題する講演会も開催した。実は安倍氏を招聘するについては一寸した逸話がある。創立者が旧制静高教授を退官した時の文部大臣が安倍氏であった。また旧制一高の先輩でもあったから、是非同氏を招きたいと思い親友松崎祐存氏を介して、来静を懇請したが、容易に承諾の返事を受けられなかった。業をにやした創立者は、この上は自ら上京して直接願い出る外はないと当時国立博物館長であった同氏を訪ねた。さすがの安か驚いたが、快く館長室に迎えてくれた。話が講演依頼の件に及ぶと、創立者は語気を強めて、「安倍さん、私を退官させたのは、時の文部大臣たるあなたですよ。私を退官させたから、静岡女子高等学院が創設されたのです。いわば、あなたは私の学校の産みの親であるのに、講演に来られぬとはどうしたことか」と詰め寄った。すると同氏も「木宮さん!そんなに尻をまくられては……」と笑って快諾せざるを得なかったという。安倍氏は後に学習院大学長として、私学の指導的役割を果たした。文化人として余りに著名だった安倍氏の講演とあって、聴衆も堂内にあふれ講演会も成功裡に終わった。かくて3月20日、ささやかではあったが、新築校舎落成の記念式典が挙行された。講堂といっても、僅か30坪の部屋に過ぎなかった。後年音楽室として使用したが、草創期の常葉学園にとってはこれが最も広い唯一の場所であった。学院開設時の入学者は2百数十名もあったのに、次年度は80名に過ぎず水落の地に独立校舎を建設した年は僅か28名に激減した。栄枯盛衰は世の常とはいえ、この現実は無情であり、儚はかなくもあり、厳しいものであった。28名の新入生と第2学年に進んだ26名と共に、これを高等専攻部と名づけ、従来通り教養に重きをおいて教育を施すこととした。一方、新制度と同じ内容の高等学校部を新設したが、実際の入学生は15、16名に過ぎなかった。この高等学校部は正式の高等学校であった教科書が入手できず、やっと吉見書店の好意で内証で余った教科書を流してもらい、急場をしのぐあり様であった。創立者はこの難局に際し、今後如何に経営していくべきか腐心していた。その頃旧制静高の宇野教授の私邸を訪れ、創立者にとって幸せなヒントを得た。早速その日から行動に移し、疾き常葉中学校の誕生創立時代の木造校舎の全景倍氏も本人自身の来館には聊常葉中・高の最初の入学案内〈昭23〉ではなかったので、当時配給制22創立十年史〈昭32〉

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