より高きを目指して
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昭和44年10月9日に短大附属たちばな幼稚園の地鎮祭が行われ、創立者も参列したが、これが公式の場における最後の日となるとは誰も知るよしもなかった。ついで10月15日は、満82歳の誕生日を迎えたので、近親の者だけで小宴を催した。好物の赤飯、ビールなども口にして、近く大阪で開かれる万国博にも見学に行こうなどと話され、頗る元気な様子であった。ところが、10月27日早朝6時半ころ、書斎隣りの座敷から呼鈴が突如として鳴り響いたので、嫁の敦子がかけつけてみると、創立者は布団から身をのり出し、うつぶせのままでベルを押しており、助け起されると煙草をとって一服吸ったものの、話す言葉は既に支離滅裂であった。その後少し眠ったけれども、醒めた後は好物のお茶すら、もう喉には通らなかった。8時半ころ医師が到着し、この時は医師の言葉に返事をした。しかし、昼前ころより意識が混濁しはじめ、言葉もロレツが怪しくなった。午後になると昏睡状態に陥り、医師には脳血栓と診断された。次の夜からは高熱が続き、10月30日午後2時27分、手厚い看護の効もなく、親族一同の見守る中で安らかに永眠された。病篤しとの知らせで、常葉中・高校生たちが祈りをこめて手折った千羽鶴が病床に届けられた。遺骸のまわりには、溢れるばかりの菊が運ばれたが、今はすべて空しかった。こうして常葉学園にとって、掛け替えのない最大の大黒柱、木宮泰彦を遂に失うことになった。翌31日、通夜、11月1日、親交久しかった臨済寺倉内松堂老師を導師として密葬が営まれ、折しも冷たい時雨のはしる中を出棺、慈悲尾の火葬場において創立者木宮泰彦の逝去創立者の逝去30木宮泰彦理事長学園葬 木宮記念館〈昭44・11〉   

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