青雲の大志をいだく一人、伯爵東ひが久しく世ぜみ通ちと禧みである。当時枢密院副議長であったが、亀谷天尊という詩人をつれて、約1週間寺の大書院に滞在した。この片田舎に公卿出身の伯爵様のお成りであるから、連日町の有力者が代わる代わる伺候して揮毫を求めたという。その傍らで泰彦は終日墨すりの手伝いをさせられた。ある日伯爵は、「お前にも何か書いてやろう」と言葉を掛けてくれた。泰彦は嬉しくなって早速町に出て、財布を叩はたいて、やっと3尺ほどの絹を買い求めて来た。伯爵様に揮毫して頂くには紙では恐れ多いと感じたのである。そして「和歌を書いてほしい」と懇請した。すると、海辺梅 芝浦のあまの屋かけてにほふめり浜のみそのの梅のはる風とすらすらと書いてくれた。後年創立者は、これを表装して少年時代の思い出の家宝として秘蔵して来た。明治35年の春、15歳の時、父恵満の師有方和尚が老衰のため遷化したので、弟子の雷童和尚と葬儀に参列するため龍雲寺に久し振りに帰った。高山から岐阜まで33里の道を2泊がかりで歩き続けた。懐かしい母や兄弟たちに会えるのが嬉しかったが、1週間の滞在で再び高山に戻った。帰途は北陸線に乗車し、金沢で1泊、初めて兼六公園も見物できたし、富山にも1泊する機会に恵まれた。それから風雨の中を歩いてやっと宗る。その頃中学校では喫煙が流行していた。泰彦の寄宿する宗寺にも客僧や雲水の出入りが多かったから、自然それに染まり学校の裏山や便所の脇にかくれて煙草を友人達と吸った。丁度その頃「未成年者禁煙令」という法律が発布されたので、急に学校側の取締りも厳しく、しばしば発覚して校長室に長時間立たされることもあった。悪いこともしたが、反面勉強もよくした。「明治のよき時代」を彷ほう彿ふつさせる少年時代だった。いよいよ中学の卒業が目前に迫ったころ、雷童和尚は2、3年は寺務を執らせ、その後はどこかの僧堂に入れてみっちり禅の修業をさせたいと考えていた。これを察した泰彦は向学の念やみ難く寺からの脱走を決意した。明治38年3月30日卒業証書を手にした晩、制服に外套をまとい脚きゃ絆はんに草わらじ鞋をつけて仮眠を装い、真夜中になるのを待って密かに脱出することとした。思えば12歳の春から満6か年世話になった雷童師匠の恩に報いることもできずして、住みなれた宗山門を出ていかねばならぬ運命に、彼の心境はまことに複雑なものがあった。やっと町外れまで行くと友人丸山一雄と松浪が待っていて、2里ほど離れた宮村まで送ってくれた。青雲の志を抱き決然と脱出を敢行する泰彦への温かな純粋な友情の訣別でもあった。宮峠の麓に鎮座する水無神社(飛一の宮)の前で、丸山の携えて来た雛祭の白酒で、3人は互いに別れの杯を交わし寺の正二位伯爵通禧寺に辿り着いたのであ08History of Tokoha 東久世通禧の和歌「海辺梅」の掛軸一高時代 寮の同室者と共に後方右より2人目が泰彦木宮泰彦 第一高等学校時代
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