旧制静高の退官を決意静岡女子高等学院設立への決意と苦悩創立者木宮泰彦は東京帝国大学史学科を卒業してから、さらに京都大学大学院で学びながら花園学院で教鞭を執っていたが、大正5年縁あって千葉県の大多喜中学校の教諭として招聘された。その後福岡県立福岡中学校の教頭として赴任したが、大正9年念願の旧制山形高等学校教授として任官することができた。この時の喜びは大きく、次男が任地山形で生誕すると、高等学校の高・の字をとり高・彦と命名した程であった。その後旧制水戸高等学校に転任し、昭和2年郷里静岡の地に創立間もない旧制静岡高等学校の教授に迎えられることとなった。当時まだ母が郷里浜松に健在であったから、母への孝養を尽くすためにも静岡は近距離であったので、ここに定住する決意をして、ささやかな住すみか処を新築した。旧制静高教授として退官するまでの約20年間は、彼にとって教育者として、また学者として最も充実した時代であった。しかし、太平洋戦争の末期昭和18年の暮れには、文科系学生は徴兵延期が停止され、いわゆる学徒兵の入営が施行された。旧制静高もこうした影響をうけ、学校隊も組織され校舎も兵営化されて、その一部は戦災により焼失、遂に昭和20年8月15日の終戦を迎えたのである。この苦難時代に重任を担ったのが、織田祐萌校長であったが、氏は時代の転換を察し、校内の応急整理をすませると、きっぱり校長を辞任し、福井の郷里に帰られた。その後任として文部省教学局長の朝比奈策太郎氏が20年10月に就任した。氏は静岡県出身で広島高師を卒業後、高文行政科に合格、地方・文部各事務官、る。小坂の町に着いたころ漸く夜が明けたが、ポツリポツリと大粒の雨が降り出し、雨脚は次第に激しくなり、夜通し歩いた疲れも出て、2、3町行っては道端の濡れた石の上に、腰をおろして休まなくては進めなかった。萩原の町に着いたのはまだ正午ごろであったが、止むなくここで泊まることとし、昼食をとると直ちに床を延べて翌朝まで、ぐっすり眠った。明くれば4月1日。この日は幸いに素晴らしい快晴であった。昨夜来の睡眠で疲れもとれ、足も慣れてこの日は10余里も歩いて、とある安宿に泊まり、相あい宿やどという初めての経験もした。翌2日はまた雨に降られたが、旅費の都合もあって今日はどうしても、岐阜まで辿り着かねばならなかった。一日中しとしとと降る雨の中を歩き続けてまるで濡れ鼠のようになった。こうしてとっぷり日が暮れてから漸く岐阜に着いた。気がかりなのは旅費の乏しいことであった。宿賃を払うと残りは僅か1円2、30銭に過ぎなくなる。でも浜松までの乗車賃が95銭であることを確かめて、ひとまず安心して床に就いた。創立者木宮泰彦の脱走はこれからの長い人生の岐路を決定づける運命の試練でもあった。をつけていけよ」友人の激励と握手にいつしか彼の両目には涙が光っていた。懐かしい高山の自然とここで別れねばならな彼は心で叫んでいた。いよいよ唯一人となった彼は、真夜中の峠道を登っていった。位山に続くこの峠は狼も横行するとまで創立者木宮泰彦─その生いたちと立志─静岡女子高等学院設立への決意と苦悩09History of Tokoha 東京帝国大学在学時代 後方右角帽制服が泰彦言いた。「。「われし高たっ山淋かのしり町い頑よ3張、里れさのよよ道み。うち程の体なりでにら気あ」
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