学院創立への趣意書体の古参教授は余り発言して欲しくない」というような態度に出た。たから、この上は自ら辞職する方がよいと考えて熟慮の末、昭和21日本青年館理事長なども歴任した。戦災で失った校舎の復旧に尽力したが、公職追放の憂き目に遭い翌年2月、僅か5か月間で校長を退いた。当時教頭であった木宮泰彦は、その後を引き受けてひとまず校長事務取扱に就任したのである。かくて1か月間は何かと多忙であった。そして、翌春4月から正式な静高第9代の校長に任命されることを期待していた。ただ、木宮泰彦は性格的にも校長のような行政職的な地位は余り好まぬ方で、むしろ学究的な肌であったから、政治的に動いてまで校長になろうとする野心はなかった。ただ、静高の場合は20年近くも在職した処であるし、既に60歳に近く、退官目前の現在おかれた地位から考えても、校長になって一応静高教授の有終の美を飾りたいと願ったのは、むしろ自然の成り行きだと思われる。しかし、現実は彼にとって厳しかった。何としても時代は既に終戦を迎え、新しい日本の曙であった。泰彦の専攻学科が超国家主義を鼓吹するかのように誤解される国史であったことは、当時、実質的には米軍占領下にあっ年3月16日潔く職を辞したのである。この時一高時代からの親友で静高教授として、最も交こう誼ぎのあった松崎祐存氏もともに辞職し、氏はひとまず埼玉県の花蔵院に帰坊した。ともかく、このような状況で辞職したことは、却かえって泰彦に発憤の気を駆り立たせ、結果的に今日の常葉学園創立の動機となったと思われる。かくて、3月16日自ら職を辞した泰彦は、自己の今後の人生のあり方について、どうすべきか、険しい人生の第2の岐路に立たされ、向かうべき途を真剣に考え抜くこととなった。かくして退官後僅か18日目の4月3日には「静岡女子高等学院設立趣意書」を公表したのである。創立者は何を動機にどのような考えから、新しい私学の開設に踏み切ったのであろうか。この趣意書は常葉学園創立の記念すべき文献であるとともに、建学の精神を知る上でのよき手がかりともなるので、煩をいとわずその全文を次に記すこととしよう。敗戦によって混沌・不安・惨苦のどん底に陥った日本をして再び立ち上がらしめ、光輝ある平和な文化国家新日本を建設する為には、何といっても先ず教育の力に俟たなければなりません。殊に将来家庭の主婦たるべき女子の教育は、欧米諸国に比べて、今まで頗る軽視されていただけに、今後大いにこれを重視し、その発展を図るべきであります。由来静岡の地は霊峰富士を仰ぎ、南た官立旧制高校の教授としては、何よりも致命的な弱点であった。これは彼の願う校長職には当時根本的に相容れ難い壁であった。そして、現実には新任の若い校長が赴任して来たのである。木宮泰彦は亥歳生まれの一刻な明治気質もあって、永年教育に尽くした自尊心も手伝ってか、自分の方に礼を尽くす校長ならばと考えたのである。しかし、新校長は泰彦とも肌が合わなかったらしく、就任早々、「老History of Tokoha 松崎祐存氏るこうこしとたは、態彼度のに最まもで嫌妥う協処しでてあ勤っめ10旧制静岡高等学校教授時代合併教室にて歴史の講義をしているところ
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