仮校舎の借用ならず浅間神社を仮校舎に強もでき得なかった実情をよく知っていた。こんなことが若い女子の再教育をほどこすことに教育者としての使命感が掻き立てられたのかも知れない。ともかく60歳の還暦を迎える歳で、自力で新しい私学創設への仮本堂建設のためことごとく取り壊されてしまった。ともかく竹内正虎中将を紹介役に頼み、臨済寺住職倉内松堂師に長岳寮の借用を懇請した。幸い同師の厚意で仮校舎として使用してもよかろうとの快諾が得られた。創立者は一番心配していた会場の目処がついて満足して帰宅した。ところがその後、同寺の檀徒総代の会合に於いて長岳寮の建物は随分古いばかりでなく、同寺は修行専門道場でもあり、連日山門に若い女性が出入りするのはいかがなものかという意見が大勢を占めた。かくして、突如お断りを食ったのである。既に入学願書の受付を開始して、志願者も予想以上の2百数十名に達する盛況であった。従って仮校舎の目当てがなくなったことに、当惑し狼ろう狽ばいせざるを得なかったのである。折角の開校計画も暗礁にのりあげ、早くも挫折するしかないのであろうか。彼は何としても打開しなくてはという焦燥感で暗い数日を過ごした。当時創設に協力していた一人に小川龍彦氏がいた。同氏は新進気鋭の版画家であったが、創立者の苦悩を察し、「お寺が駄目ならお宮にしてはいかがですか!浅間神社ですよ」と明るく答えた。藁にもすがりたい心境だった創立者は小川龍彦氏の助言に励まさ情熱を異常な程の決意と信念で実践したことは、家人をはじめ、同僚・知人も驚くと共に危き惧ぐの念をいだいたようである。退官直後、いくつかの大学からの招聘もあったが、当時焼土と化した東京都下には、安住する本拠も見い出し難く一切を辞退したのである。木宮泰彦の偉さは一度決意した初心は、男らしく飽くまで貫徹して止まないという根性であったといえる。彼は日頃百丈禅師の言葉「一日不作、一日不食」を座右の銘として来たが、この信念が今日の常葉学園の基礎を盤石のものとしたといっても過言ではない。学院開設に当たって適当な場所を借用したいと考えたが、当時焼土と化した静岡には手頃な建物は皆無に等しかった。木宮泰彦は寺の出身だから自然と頭に浮んだのが、名刹臨済寺境内にある長岳寮であった。臨済寺は賎機山を背に天文5年今川氏輝公の墳寺としてから大龍山臨済寺と称した由緒ある妙心寺派禅寺である。今川氏の軍師といわれた雪斎長老が事実上の開祖といわれ、徳川家康が幼名竹千代といったころ、今川家の質子として義元の許しを得てこの臨済寺に来たり、雪斎について勉学に励みその薫陶を受けたことは、余りにも有名である。長岳寮は山門の左手、今川廟の西に隣接した2階建で明治27年、瀬名村から移築したものだという。古いけれども、仮校舎として使用するには広さといい、環境といい申し分がない。現在は臨済寺の大改修にともない、静岡女子高等学院時代の看板書家沖六鵬氏の揮毫12History of Tokoha 臨済寺の長岳寮全景
元のページ ../index.html#14