より高きを目指して_令和7年
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校章の制定して小川龍彦氏に依頼していた。まだそうした製作所もなかったから、生徒には刺繍で作ったものを用いることとした。赤青の絹糸に金糸を配した極めて優美なものであった。さて創立者が何故、橘花を校章に制定しようとしたのか。彼が自ら綴った『創立十年史』に次のようにその由「私は静岡に因んで名産柑橘の一種橘花を以て校章と定めた。橘は古くから桜と並び称せられた。内裏の紫宸殿の前庭にも、左近て開校式が行われた。この日空よく晴れ渡って一点の雲もなく、薫風香るすがすがしい好天気であった。そして、あの大奉拝殿に朱塗りの太い丸柱が立ち並んの紋もん縁へりの青畳の敷きつめられた神聖にして荘厳な大殿堂に、多くの名士を来賓として迎え、若く美しい238名の新入生を集めて、私の式辞に次いで、静岡・清水橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹の桜と並んで右近の橘があった。清少納言も『枕草子』に、雨の朝の橘花は、露にぬれた桜花にも劣らぬ風情であるとほめたたえている。奈良朝の元明天皇の御養育掛に県犬養三千代という婦人があった。天皇は即位式後の宴会に三千代の日頃の忠誠をお賞めになり、盃の中に橘の実を浮かべて賜り、「橘は人の好む果実、その葉は霜雪にもしぼまず、その実は金銀珠玉よりも美しい。よって汝に橘姓を賜う」との詔があった。これから三千代は橘氏と称し、源平藤橘と並び称せられた橘氏の祖となった。のち三千代は藤原不比等の妻となり、有名な光明皇后を生み奉った。藤原氏が大いに栄えた一半は、三千代の内助の功である。聖武天皇が橘諸兄に賜わった御製にとある。本学園が橘花を校章としたのは、橘が青々として、いつ両市長を始め、静高時代の同僚であり親友である松崎祐存・福原龍蔵両氏の祝辞があり、わが学園としては、永久に記念すべき歴史的祝典であった。」云々、といった調子のものであった。祝宴用の酒を得るために税務署にもお百度参りして、やっと特別の配給を受けることができた。折詰料理を作る所もなく、中島屋旅館の厚意で木箱の弁当箱に赤飯をつめて寄贈してくれた、と記してあった。封書の中には、1枚のブルー紙が入っていた。薄手の紙でよくブンブン紙と子供たちは呼んでいたが、それに橘花を図案化したらしい木版画が、手刷りらしい趣をこめて押されてあった。開校式に紅白のまんじゅうを配り、その時の包み紙に使ったものだと説明してあり、小川龍彦氏が彫っただけにみごとな図案であった。これがのちの常葉中・高校の校章の原型となったのである。創立者は開校以前から橘花を図案化して、校章を制定しようと祝開校式 赤飯弁当箱の上紙当時はバッジを作ろうとしたが、14History of Tokoha              刺繍の紋章 終戦直後で金属製バッジを作るにも困難であった来を記している。静岡女子高等学院浅間神社の大奉拝殿にて開校式〈昭21・6〉で華、々所し謂く列開柱式のさ美れ、を学な院し、長数た百る

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