より高きを目指して_令和7年
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五島氏に支援を懇請築する財源は全くなかった。当設資金を五島氏に懇請することにしたのである。さて、五島覚次氏が社長と相談してと言った社長とは、実は同氏の実弟に当る五島秀次氏であった。彼は小学校までの学歴ろ、所在地も会社名もぴったり一致しているではないか。そうだ!今どきこんな大きな広告を出すのは、相当の会社に違いない。大会社からすれば10万円など大した金額ではないのかも知れないと思った。ともかく五島覚次という人物の言葉を信じて、一度会社を訪れることにした。数日後創立者は久しぶりに東海道線に乗車し、金谷という田舎町に下車した。駅前の一本道を尋ねたが、誰も知る者はいなかった。逸る心を押えながら、また街角に立つ中年の婦人に同じことを尋ねた。五ご島とうという会社をご存知ないでしょうか。暫くして婦人は、合点がいったようなまなざしで、ああ五ご島しまさんですか、五島さんならすぐそこですよ。五ご島とうと書いて五ご島しまと呼ぶんですか。こんな会話を交わして、創立者はようやく目差す五島製網株式会社の正門をくぐることができた。突然の訪問に常務の五島覚次氏も驚いたが、応接間に通してくれた。先頃の財団法人の基本金について改めて懇請した。既に事情をよく理解していた五島氏は、ともかく社長とよく相談してできる限り、協力しようという確約をしてくれた。創立者は安堵と喜びで夢みる心地であった。浅間神社北廻廊の仮校舎にいつまでも居座ることもできないので、既に昨秋市内水落町の敷地500坪ほどを校地として、買収していた。この地は駿府城外濠の一角に位し、静岡駅からも徒歩十数分の極めて通学に便利な理想的な場所であった。戦後間もない資材不足の時代であったから、土地は求めても校舎の建設が、それ以上の難事業であった。少しでも安く建設するため駅南の静岡鉄工所の青年学校として、戦時中使用していた約100坪ほどの木造校舎1棟を買収することとなった。しかし、この校舎を水落まで移しかなかったが、明朗闊達な人物で、人の気を察するのに明敏であった。当時はまだ少壮の働き盛りで、五島製網株式会社の社長のほか県会議員としても、多忙な活動に奔走していた。氏は時代の波に乗った寵児で一代にして財をなしたが、反面、己を頼る者には気前よく経済的援助も惜しまない好漢でもあった。ある日突然三男栄彦は父に呼ばれた。その要旨は五島さんの会社まで行って、30万円をいただいて来いというのであった。話はつけてあるから名刺を渡せばよいというのである。「何しろ30万の大金だから、よく注意してくるんだぞ。そうだ!なるべく古い風呂敷を持っていって、新聞紙に包んで、弁当箱でもさげてくるような格好でくるとよい。」と言った。五島氏から立ち通し、吊輪を握っていた。車窓の景色を眺めながらも左手の弁当箱が、なんとも気になるのである。見たこともないこんな大金を現なまで遣り取りするのは、今日では非常識のようだが、終戦間もない当時は普通に行われていた。とも角30万円の寄附で創30万円の擬装弁当五島秀次氏との出会いとその支援19History of Tokoha     30万円を受け取った彼は、緊張しながらも混み合った列車の中で10万円と合算して、30万円の建初代理事長五島秀次氏あの時他創れ諸立ば経者と費は考を素え含人た。め判そて断こもでで移20基万築本円費も金そ暫らぎくを歩与きえなてがくら、れ静た。岡彼とはは道違ゆっくた人鄙ひなをび止ため街て並五ごの島と情うと緒いが、う心会の社を安五島覚次氏

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