木宮先生も男だ再度の懇請話すと、暫く聴き入っていた五島秀次氏は、齒切れのよい言葉で「先生、木宮先生も男だ、乗りかけた船は乗るんだなあ! は忙しいので失礼する」と言い残してものの数分して、再び忙しそうに待たせてあった車に姿を消していった。80万円もの大金を追加してくれるのか、くれないのか謎のような氏の返事であった。しかし、氏の男らしい簡潔な的を射た言葉を創立者は学院創設の思い出話として終生忘れなかった。謎の一言は、快く承諾してくれたのであった。80万円の追加寄附は、遂にまだ焼野原であった水落町の一角に、道行く人が目を見張る程の清楚な青い2階建校舎となって実現されたのである。かくして、7月1日五島秀次氏を理事長に戴き、財団法人常葉学園設立許可の申請書を文部省に提出し、ここに初めて聖武天皇の御製に因んで法人名を「常葉」と名付けたのである。立者は財団法人の基本金も木造校舎の移築費もこれで適かなえられると思うと、新しい学院建設への闘志が湧くのであった。既に静岡鉄工所から買収した上は、早く移築してほしいという矢の催促を受けていたから、急ぎ請負業者を呼んだ。遠藤さんという建築業者で当時娘が学院に在学していたから万事都合がよかった。しかし、平屋の旧木造は3教室しかなかったから、この際2階建に改造することをすすめられ、改めて移築費と改造費を見積もらせてみた。ところが、凡そ100万円を必要とすることが判り、創立者は余りの隔たりに愕がく然ぜんとした。しかし、2階建にしたいという夢はぬぐい去ることができなかった。悶々と考え込んでも無い袖は振れず、建設計画は暗礁に乗りあげてしまった。結局再び五島覚次氏に率直に推移を語って支援を懇請するしか途はなかった。幸い人柄の良い同氏は社長ともう一度よく相談してみることを確約してくれた。かくて数日後五島覚次氏より、社長と一度面談してほしいとの連絡を受けたのである。その頃社長五島秀次氏は事業家と政治家を兼ね、極めて多忙で簡単に会うことすら至難であった。やっと氏が静岡へ出張する度に、休息の所在としていた「静竹」という割烹旅館で、面談の日取りを約束することができた。几帳面な創立者は約束通り「静竹」を訪れ、2階の和室に通されたが、小一時間待っても五島氏はなかなか現れなかった。やっと軽い足どりで入室した氏は、早々に「やあ先生、お待たせして、すまん、すまん…」と言うなり腰を据えた。初対面の挨拶もなく「時に、先生、今日は何用だね!」と言葉を畳み掛けてくる。創立者は率直で野人的な飾り気のない人柄で、短兵急な人だなと直感した。簡潔に80万円追加の懇請を今日20History of Tokoha 初めて印刷した常葉学園のしおり〈昭22〉
元のページ ../index.html#22