より高きを目指して_令和7年
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したりした。幸い各私立中学校とも大巾の応募者があり、不合格者があったので快く申し出に応じてくれたのである。ともかく志願者が60余名集まり、最初の入学者というので学科考査のほかに、静高心理学教授小木曽恩氏のメンタルテストまで行い、50名を選抜して入学を許可した。水落町に472坪の校地を買収し一応2階建校舎も建設されたが、まだまだ運動場が狭く、当時流行した女子のソフトボールも思うにまかせず、あちこちの運動場を借りたり、特に警察学校のグランドをよく借りたりしては練習した。校地拡張の必要に迫られ、再び五島氏(当時理事長)の3度目の出資により約50万円で隣地508坪の土地を買収することができた。坪単価は千円で、しかも戦災後建てられたバラックが7軒も散在していた。直ちに借家人に明け渡しの交渉に入ったが、とりあう者はいなかった。世間知らずの学者生活を送って来た創立者が出会った一大試練だった。父兄に話をすれば地上権のある土地を買う馬鹿はいないよと笑われる。当時法律的にも戦災特例法により、借地人には地上権も居住権も存在していたからである。後年創立者は負け惜しみではなく、次のように語っていた。「世間知らずに無我夢中で買収したから、『わしが買ったから出てくれ』と言えるのだ。『買うつもりだから出てくれ』と言える筈もなく、逆に『権利もないのに、ふざけた事を言うな』と怒られるのが落ちだ。世智にたけた者ならできなかっただろう。ともかく明け渡しの交渉は困難を極めた。町内会長E氏が介入し、交渉は暗礁にのり上げた。氏は奇人・変人の噂が高く、何回かの調停裁判も不調にさせ、容易に解決する兆しはなかった。止むなく弁護士O氏にE氏との間を解決するよう依頼した。O氏も親分的な人物で、弁護士会の古参であったから、E氏が狐ならO氏も狸で、この二人を接触させるのに大変苦労した。ついに業をにやした四男和彦は中間テストの束を法律事務所の待合室に持ち込んで採点を始め、交渉にいくまで座り込み戦術を敢行した。遂に奥さんの支援もあり、当時こと風の如だく、電光石火のちの常葉中学校が誕生したのである。この間の件くりを創立者は『創立十年史』に次の如く記している。「忘れもしない3月10日の夜のことであった。静高時代の同僚宇野慶三郎氏を訪ねたが、同氏から今日令息の入学考査のため附属中学へ行ったが、受験生の多いのに驚いた。あなたのところでも中学校から始めたらどうかと頻りに勧められた。私も予てから教育の理想を徹底させるには、高等学校よりは若い中学校の生徒からと考えていたから心大いに動いた。既に夜も更けて冷雨のしとしとと降る暗い夜であったが、私は直ちに安東にお住まいであった市の学務課長山本英雄氏を訪ねて意見を求めた。ところが市でも戦災後、校舎が不足して2部授業などを行っている状況だから、甚だ結構な企てであるとのことであったから、私はいよいよ中学校設立の決心を固め、すぐさま準備にとりかかり、3月19日付を以て、常葉中学校設置許可申請書を提出し、それと同時に生徒募集にとりかかった…」と。 昭和23年4月1日付で設置許可もあり、既に入試の終わった市内の私立中学校を訪ねて、男高彦・三男栄彦・四男和彦はもとより、和彦の学友で当時静高在学中の橘勝也氏(元学園監事)及び長谷川弘道氏(元浜松大学長)などの協力も得られた。各中学校の不合格者のリストを写させてもらったり、これから入試を行う父兄控室にポスターを掲示させてもらったり、ちらしを配布常葉中学校・常葉高等学校の創設23History of Tokoha 常葉中・高 第一回運動会〈昭24〉生徒募集の協力を願った。次

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