より高きを目指して_令和7年
26/70

高校無認可の悲哀高校設置認可までの苦渋ることを説明して苦しい弁明につとめたが、認可を得るには新しい設置基準に適うことが必要とされたが、その基準は膨大なもので、その頃の貧弱な学園にとっては届きかねる基準であった。しかし、常葉中学校も誕生して3年となり、近く中学生も高校生になる時期となり、どうしても翌年度には高校の認可を必要とする重大な危機に直面していたのである。さて、昭和24年12月15日、私立学校法が成立し、私学は今までの財団法人から学校法人に組織変更することとなった。かくて昭和25年12月に「学校法人常葉学園」に改組したが、高等学校以下の私立学校は県に私立学校審議会ができ、その答申を得て県知事が認可することになった。時の知事は斎藤寿夫氏、総務部長は脇田恵氏、私学を所管する学事課長は鈴木健一氏であった。また、発足した私立学校審議会の会長は、初代私学協会長阿部芳三氏、私学代表には英和の室田、西遠の岡本両氏が委員として選出されていた。高等学校の認可について、毎年のように県に打診したが、如何せん余りにも施設が足りず問題にならなかった。しかし、静清工業高校の相葉校長のように、陰に陽に私学団体の加入について尽力されたり、各種学校である高等学校部についても、校外補導連盟への加盟を斡旋してくれたり、高等学校昇格への実績を重ねることができた。昭和25年度は入学志願者は少なかったが、中等部、高等部、それに洋裁専門部を加えると総生徒数は244名となり、初めて全学年が整った。しかし、高等部は高等学校に類する各種学校であるため、いよいよ第1回の卒業生を出すに当たり、上級学校に受験したくとも受験資格がなかった。皮肉にも僅か16名の卒業生の中に、ただ一人であったが、薬学専門学校に進学を希望する者がいた。静岡薬学専門学校は県立に移管する前年であり、経営にも困難を極めていた時代であったので、特に高等学校卒業の資格試験を行ってくれた上、幸いにも無事合格することができて一安心した思い出がある。また、当時2年生の一部に高等学校の認可のない事をどこかで聞きつけて、学校に説明を求めたり、不穏な動きがあった。目下認可申請中であの20万円の現ナマを持って、E氏の目の前に出したり、入れたりしての狐と狸の化ばかし合いの結果、やっと合意に達した。その後栗田茂久氏の好意で220坪の土地を譲渡してもらい一軒一軒移転させ、3年に亙る明け渡し事件が解決した。移転が順次進行中の11月、初めて運動会が催された。校地内にはまだ数軒バラックが取り除かれず残っていたから、バラックとバラックの間にトラックをつくり、急場をしのいだ。生徒たちは頗る元気で、紙に描いた万国旗を張りめぐらし、バラックとバラックとの間を通り抜けてトラックを走り、見え隠れするリレーレースに歓声を揚げて楽しい運動会を催した。これはのちのちまでの語り草となった。24History of Tokoha   当時まだ珍しかった鉄筋校舎の竣工 運動場から望む〈昭31〉

元のページ  ../index.html#26

このブックを見る