より高きを目指して_令和7年
29/70

橘中学校と登竜寮までの8年間は、奥山方広寺での「参禅合宿」が行われた。坐禅・法話・講話・食事作法・清掃など、日頃しなれない生活体験の中に身を置き、自分自身を考えさせる機会と環境を与えようと「真黒い秀才」の育成を目指す男子高校の理想を実現するためには、中・高6か年の一貫教育こそ最も望ましいシステムであろうとの認識のもとに、中学校設立を決断、昭和40年4月第一期生な産みの苦しみを克服し、橘中学校をスタートさせたのであった。ところで、必ずしも成績優秀者ばかりといえない生徒集団を如何に鍛え上げるか、種々議論がなされ、工夫が試みられたが、将来橘高校の中核となり、その牽引力を発揮させるためには、究極的に学寮を設けて24時間教育を施す以外には打開策はあり得ないとの結論に達した。開校後間もない極めて困難な状況の中で、この実現に向かって努力の結果、漸く昭和44年4月、鉄筋4階建の中・高生あわせて志に燃えた生徒たちの勉学の道場として、学習指導・生活指導両面からその使命を達成すべく、若い教師たちの献身的な指導や管理人の愛情あふれる協力により、大きな成長が期待されることとなった。50年4月増築が行われ、収容力は倍増しそれぞれ80名ずつの高校生寮と中学生寮とが完備した。現在までこの寮から巣立って有名大学に学び、社会の第一線で活躍している卒業生は数多い。するものであった。昭和47年度、伊豆子浦に学園の臨海学移行した。収容力の関係でクラス単位で行われたため、教師と生徒、または生徒間の人効であった。この間、昭和49年5月9日の伊豆沖地震に遭遇し、海上保安庁の船で脱出するというハプニングもあった。立青年の家で合宿研修が実施された。校風になじみ、高校生としての自覚を促すための厳しい訓練ではあっても生徒にとっては、また楽しい思い度学園研修センターが開設され、2クラスずつ1週間起居を共にしながら勉学する合宿通学が行われるようになり、今はこれが集団訓練の主流と昭和52年度より平成2年度橘高等学校・橘中学校の創設2780名収容の学寮が建設され、「橘登竜寮」と命名された。青雲の27名が受け入れられた。教員の熱意と保護者の理解により、困難History of Tokoha   橘中・高生の制服(左側)と学習着(右側)〈昭46・4〉な出まっとでてものいな14るっ年。て間いはる御。殿昭場和の53年国橘高 県高校駅伝大会初優勝〈昭63・11〉浅井一宏君 東京大学に合格〈昭46・3〉登竜寮生の登校風景〈昭44・4〉間校関が係開を設育さてれ、る以の後にそはち一ら層に有

元のページ  ../index.html#29

このブックを見る