創立者木宮泰彦生いたち高山への旅─その生いたちと立志─も度々であった。「他人の飯を食い揉もまれなくては、ものにならぬ」という考えから長男以外は、10歳にもならぬ幼い頃から他寺に預けられた。泰彦も5歳の夏、西鴨江の曹洞宗華学院に預けられたが、この寺は蚊・食・院といわれたほど夏には恐ろしく蚊が出て、悩まされたという。幸い数か月で家に引き戻されたが、翌年村の尋常小学校へ普通より1年早く就学した。しかし、10歳ごろ今度は中田島の海龍寺に預けられ、白脇尋常小学校に転校した。この時の校長が後に静岡女子商業高校を創設した長島行吉氏であった。同氏が女子商を創建した水落町の発祥地に、戦後常葉学園が創立されたのも偶然とはいえ奇しき因縁であった。さて、明治31年3月、白脇尋常小学校を卒業した泰彦は、さらに浜松にしかなかった元城高等小学校へ進んだ。彼が入学した時は、元城校だけでは収容し切れず五社神社の社務所を仮校舎として学んだという。翌明治32年の春、12歳となった彼は再び龍雲寺へ連れ戻された。これというのも、父親が岐阜高山の名刹眞龍山宗そうゆう寺じに預けて小坊主修行をさせようと考えたからである。父の絶対命令で拒むこともできず4月4日、高山へ旅立つ日を迎えた。あいにく早朝から土砂降りの悪天候であったが、父に伴われて下り列車に乗車、ひとまず叔父の住む名古屋飯田町の稲垣家に向かった。相変わらずの大雨のため名古屋駅から生まれて初めて人力車に乗せてもらった。翌5日は好天気となったので、父と叔父に連れられ名古屋見物をした。泰彦は初めて前輪が大きく後輪の小さな珍しい自転車を見たり、黒いベールをかぶった西洋婦人に出会ったりして強い印象をうけた。夕飯はすき焼をご馳走になり、生まれて初めて牛肉を食べたという。翌日も快晴であった。父と別れ、稲垣家で頼んでくれた人力車に乗って、中老の車夫と二人だけで高山までの旅が始まった。寺宮・康仁親王であるといわれ、裏山には同親王の墓と称せられる五輪塔が残っている。因みに後二条天皇は有名な後醍醐天皇の兄君に当たられる。明治になって名字を木宮と称するようになったのは、木・寺宮・に因んだからだといわれている。ともかく創立者は幼年時代をこの寺で、厳しい両親のもとで育てられた。男ばかり4人の子供に対し、父親は頗る厳しく「小僧と庭木はいじめる程よくなる」といって憚はばからなかった。そんなわけで幼い頃から折檻を受け、半日以上も土蔵に放り込まれたこと常葉学園の創立者木宮泰彦は明治20年10月15日、静岡県浜名の臨済宗妙心寺派西湖山龍雲寺に父充邦(諱は恵満)・母い・の・の次男として生まれた。この寺は当時の浜松市から西方へ4粁ほど離れた佐鳴湖東南の岸にある。老松と雑木がうっそうと生い茂った山を背に、戦前までは山門の前は広々とした田畑を距む景勝の地であった。寺伝によると開基は後二条天皇の皇孫木・06創立者の生家 浜松市入野町龍雲寺全景郡て入て野、村(遠く現東・浜海松道市の西松区並入木野を町望)History of Tokoha
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