寺の生活の日に人生のスタートとした8の日を深く心にとどめていたからである。本堂で約1時間の誦ずきう経ょがあり、部屋に戻って直ちに清掃にかかる。冬ともなれば門前までは勿論、本堂や観音堂に通ずる2町もの除雪作業をしてから登校せねばならない。午後4時には晩課、5時に夕食、それから入相の鐘をつくとやっと1日の行が終わるのである。寺の食事は極めて質素で、朝食は前日の残飯と醤油だけで煮しめた大豆と漬物だけ、昼は暖かい飯に味噌汁、晩は昼の残飯と芋や南瓜の煮しめである。魚肉類は一切用いられなかった。こんな生活のうちにも13歳の春を迎え、斐太中学校に入学し60名の学友と勉学に励んだ。その時の校長は東大史学科卒の弱冠28歳の寺での生活はさすがに厳しい僧堂らしく、毎朝5時に起床、高宮乾一氏であった。彼は当時流行のカイゼル髭の風貌で、生き生きした校風を育てていた。後年高宮校長は福岡中学校創設ころ東大を卒業した泰彦は招かれて同校の教頭となり、扶たすけて太中学校出身の師弟の因縁浅からぬものがあったからである。泰彦にとって中学時代の最も強い思い出は、明治34年の夏、一人の珍客が宗寺に来訪したことである。この人物は、幕末に長州へ都落ちした有名な七卿の雑を極めていた。4月8日は釈迦の降誕した所謂「花まつり」の日でもある。さあいよいよ宗泰彦の胸は不安と決意が錯さく綜そうするのを覚えた。新しい大志を抱き人生の第一歩を踏みだす日なのだ!彼は明治32年4月8日を生涯忘れ難い決意の日と定めたのである。常葉学園の前身静岡女子高等学院の開設は2か月遅れたが、この日に因んで6月8日を創立記念日に定めたのも創立者が、少年2泊しなければならなかった。それでも車代は僅か5円であったた。「名古屋の郊外に出ると、恰あかも春のことで菜の花が黄色に美しく咲き揃った畑の間を、ひた走りに走る。振り返ると名古屋城の金のしゃ鯱ちほこがピカピカと、朝日に照り輝いている……」とまるで日本画を見るような文体で、少年の日の印象を自叙伝にとどめている。翌7日はいよいよ飛国に入った。耶馬渓にも劣らぬ景勝地、中山7里を越えて、益田川の「籠渡し」を眺めながらその日は萩原の町に泊まった。4月8日遂に登り下り3、4里もあるという宮峠を越えて、宮川の川岸に沿う高山盆地に出て、午後4時頃めざす宗た。寺ではこの日は開山忌が行寺での生活が始まるのだと思うと、寺に着い宗宗History of Tokoha 創立者木宮泰彦─その生いたちと立志─創立者の4人兄弟 左より三男寧道、次男泰彦、長男亮邦、四男道済龍雲寺開基の木寺宮康仁親王の墓わ高山れま、で僧は侶片や道檀44信里徒、が途集中ま宿り屋に混07飛騨高山の名刹 真龍山宗寺そ時のの創初業代に校尽長くにし転たじ。たこがれ、もそ斐の
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