校長だより

之山忌にて

常葉には、2つの大事な日があります。1つは、6月8日の創立記念日です。この日は常葉の誕生を祝い、学校の歴史を改めて知る日です。そして、もう1つは、今日、10月30日です。今日は、創立者 木宮泰彦先生の命日です。先生は今から57年前、82歳でお亡くなりになりました。今日の「之山忌」式典にあたり、創立者の人となりを知って、創立者に感謝する日にしたいと思います。

まず、「之山」というのは、先生の雅号、わかりやすく言うと、ペンネームです。「坊ちゃん」で有名な「夏目漱石」も雅号・ペンネームで、本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)といいました。

創立者は、私にとっては祖父にあたります。でも、私が幼稚園生の頃に亡くなったので、はっきりとした記憶はありません。今日は創立者が生きた時代をみなさんに紹介したいと思います。

泰彦先生は、中学を卒業して、海兵になるための試験を受けます。当時は、日本が戦争に勝ち進んでいた影響もあって、青年たちにとっては「軍人」になることが憧れの時代でした。倍率は20倍だったそうですが、試験には落ちてしまいます。「80年の生涯」という、泰彦先生の自叙伝にはこんな一節があります。「もし海兵の試験に合格していたら、太平洋戦争の頃には、一艦隊の司令官として奮戦し、花々しく戦死しただろう。それが、今は、80歳を過ぎるまで、子や孫に囲まれて平和に楽しく生き延びている。人の運命は水の流れのように行方は分からない。」振り返れば、「運」も泰彦先生の味方をしてくれていたのかもしれません。

そのあと、一浪して、旧制第一高等学校に合格します。これは、現在の東大への進学を目的とした予備教育機関でした。泰彦先生が20歳の時でした。一高は、天下の秀才を集めた学校だけあって、将来の日本を背負って立つ人材ばかりだったそうです。自叙伝を読んでいて、初めて発見したのですが、一高の卒業写真には、新渡戸稲造が校長先生として写っていました。前の5千円札の肖像で有名ですが、グローバルな視点で教育を受けたことも泰彦先生にとっては、大きな刺激になったようでした。

泰彦先生は明治の生まれです。みなさんは、「文明開化」という言葉を聞いたことがありますか。「明治維新」によって、諸外国との交流を始めた日本にとっては、アメリカやヨーロッパからの西洋文化が、近代化への近道になりました。着物から洋服に、武士はちょんまげを切ります。これは、泰彦先生が当時被っていた、「山高帽」です。「散切り頭(ざんぎりあたま)を叩いてみれば、文明開化の音がする。」こんな言葉も当時、はやりました。ろうそくからランプに、街燈にはガス灯がともされ、食事もカツレツ、オムレツ、カレーなど一気に西洋化した時代でした。牛肉を食べたり、牛乳を飲んだりしたのもこの頃です。木村屋のあんぱんが生まれたのもこの時代です。

泰彦先生は、学生結婚をして、24歳の時に長女が生まれます。奥さんは7つ年下でしたから、奥さんが17歳の時の子どもでした。泰彦先生には、3人の女の子と5人の男の子と、合わせて8人の子どもがありました。少子化の現在では考えられませんが、当時の日本は、このくらい子どもがいるのは当たり前でした。ただ、貧乏だったので、結婚式などもあげることもなく、奥さんと一緒に写真を撮ることもありませんでした。唯一、晩年奥さんと笑顔で写った写真があります。エントランスの展示室にありますから、ぜひ見てください。

8人の子どもたちの教育には熱心だったようです。受験の時には、毎晩子どもたちが苦手な勉強をみたりしていたそうです。泰彦先生は、毎日、日記をつづっていました。ここに昭和10年大晦日の日記があります。

「この1年を顧みると、生涯で最も多難な年であった。之彦は病気をするし、高彦はちくのうの手術、赤痢で自宅療養、栄彦、和彦は元気であるが、成績があと一歩のところ。来年は、家族一致協力して奮闘しなくてはならない。」振り返れば、普通のいいお父さんだったということですね。之彦、高彦、栄彦、和彦、満彦・・・5人の男の子は、みんな「彦」がつきました。

話はつきませんが、最後に泰彦先生が戦後すぐに、女子教育の大切さを感じていたのは、泰彦先生のお母さんの存在が大きいと思います。学校教育を受けたこともない無学な人でしたが、賢明で決して曲がったことはしない人でした。生活は質素で、勤勉でよく働く人でした。無学ではありましたが、記憶力はすこぶる旺盛でした。自分の身は切り詰めて質素倹約の生活をしても、子どもの学資金は惜しまなかったそうです。

自叙伝にも、「今日自分があるのは、山よりも高く、海よりも深い母の愛情のおかげである」と書いています。敗戦で混沌とした日本を立ち直らせるのは、泰彦先生のお母さんのように、女性の教育が大切であると感じたのはもっともでしょう。

先日、高市早苗さんが、日本で初めて女性の首相になりました。国会議員に占める比率が2割に過ぎない日本で、アメリカよりも早く「ガラスの天井」が破られました。今年は戦後、80年ですが、女性が参政権を得て80年です。80年前に女子教育の大切さを訴え、女学校を作った泰彦先生は今の時代をどんな風に感じているでしょうか。やっと時代が追い付いてきたなと・・・言っているような気がします。

常葉は、女子校ですが、性別関係なく、多様な価値観をもった人たちを受入れ、より豊かな社会、日本、より平和な世界に貢献できることが、次の世代につながっていくのではないかと思います。

 ※泰彦先生の生前の声を聞く。

エントランスホールに、泰彦先生の胸像があります。いつもみなさんを見守っていてくれています。今日、帰る時には、「立ち止まって一礼」をして、ぜひ先生にあいさつをして帰ってください。きっと喜んでくれると思います。

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