学校紹介

建学の精神・校訓

創立者 木宮 泰彦
創立者 木宮 泰彦

常葉のはじまり

常葉大学は、県下最大規模の総合大学に成長しましたが、常葉の始まりは、戦後まもない1946年(昭和21年)6月8日に開校された、静岡女子高等学院という小さな女学校でした。その女学校こそが、私たちの学校、常葉大学附属常葉中学校・高等学校であり、常葉の発祥の地にあたります。
創立者、木宮泰彦(きみや やすひこ)先生は、日本の復興を女子教育に託し、静岡浅間神社の北回廊を仮校舎とし、静岡女子高等学院(現・常葉大学附属常葉中学校・高等学校)を設立しました。

私たちは還暦を迎える年に、戦後の何もない中で、教育の力で日本の復興を決意した、創立者、木宮泰彦先生の志を今も大切にしています。
「美しい心情をもって人と接し、堅固な意志と健康な身体をもっていかなる困難にもうち克ち、より高きをめざして学び続ける人」を理想に、これまでのよき伝統を守りながら、時代の求める女子校へと発展を続けています。

創立者の紹介

創立者 木宮泰彦(きみや やすひこ)
1887-1969年大正・昭和時代の歴史学者、教育家。

明治20年(1887)10月15日静岡県浜名郡入野村(浜松市)西湖山竜雲寺に木宮充邦の次男として誕生。 第一高等学校を経て大正2年(1913)東京帝国大学文科大学史学科卒業。同期に中村孝也がいた。山形高等学校・水戸高等学校・静岡高等学校の教授を歴任し、昭和21年(1946)静岡高等学校長事務取扱を最後に退官。同年静岡に静岡女子高等学院を設立。昭和25年に学校法人化(学校法人常葉学園。平成29年4月から学校法人常葉大学に改称)、昭和41年には常葉女子短期大学を設立し学長に就任した。この間中国に出張、勲三等瑞宝章を受け、従三位に叙せられ、銀杯をうけた。昭和44年10月30日死去。82歳。墓は静岡市臨済寺。

著書に『栄西禅師』、『日支交通史』上・下、『日本古印刷文化史』、『日宋関係』(岩波講座『日本歴史』所収)、『参考新日本史』、『日本喫茶史』(海野久平と共著)、『日本民族と海洋思想』、『日華文化交流史』などがある。なかでも『日支交通史』(大正15年・昭和2年)とそれを改訂した『日華文化交流史』(昭和30年・令和6年新装版)とは、古代から江戸時代までの日本と中国との史的関係を系統的に叙述した最初の学術書というべきもので、遣隋使・遣唐使・留学生・帰化人の行動などを詳述し、禅僧の語録なども充分に利用していて、戦前における対外関係史研究の水準を示す代表的著述の一つである。   ───『国史大辞典』による

建学の精神

より高きを目指して
〜 Learning for Life 〜

常に青々とした葉を繁らせ、
純白な花を咲かせて黄金の実を結ぶ橘こそ、
常葉の象徴。
美しい心を持ち、
より高い目標に向かってチャレンジし、
学び続ける姿勢こそ、
常葉の精神。

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常業学園は、学問の研究と人間の育成に限りない情熱を傾けられた日本史学の泰斗、木宮泰彦先生によって、昭和21年に創立された。「戦後の混沌とした日本を再び立ち上らしめ、光輝ある平和な文化国家を建設するためには、先ず教育のカにまたなければならない」とのゆるぎない信念のもとに、敢えて困難をも顧みず常葉学園の創設にあたられたのである。この教育の力に対する創立者の倍頼と確信こそは、本学園の建学の精神である。

創立者木宮泰彦先生は「万葉集」に見える聖武天皇の御製

橘は実さへ 花さへその葉さへ
 枝に霜ふれど いや常葉の樹

に因んで学園を「常葉」と各づけ、その理想の姿を橘の瑞木に託された。霜雪に耐えてつねに青々とした葉を繋らせ、純白で香り高い花を咲かせ、豊かな黄金の実を結ぶ橘こそは、常業学園の教育理念の象徴である。即ち、本学園の理想とする人間像は、美しい心情をもって、国家・社会・隣人を愛し、堅固な意志と健康な身体をもって、いかなる苦難にもうち克ち、より高きを目指して学び続ける人間である。

百文禅師のことば「一日作(な)さざれば一日食(くら)はず」を自戒として、日々研鑽を積まれた学園創立者木宮泰彦先生の生涯は、まさにこの建学の精神の具現であった。先生は順境に奢らず、逆境にめげず、常によりよき自己の実現のために、生涯にわたって真摯な努力を続けられた。この創立者の精神こそ常業学園にかかわるすべてのものの心である。

常葉の由来

創立者は静岡に因んで名産柑橘の一種、橘花をもって校章と定めました。
橘は古くから桜と並び称され、京都にある紫宸殿(ししんでん)前庭にも、左近の桜と並んで右近の橘があります。清少納言も「枕草子」の中で、雨の朝の橘花は、露にぬれた桜花にも劣らぬ風情であるとほめたたえています。

今から1300年ほど前、奈良朝の元明天皇の息子であり、持続天皇の皇孫にあたる軽(かるの)皇子をご養育申し上げた県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ) という婦人がいました。和銅元年(708)元明天皇が即位せられ、大容祭が行われた後の宴会の席上、天皇は三千代をさし招かれて、幼少から皇子を熱きに養育してきた彼女の忠誠をお賞めになりました。そのとき、盃の中に橘の実を浮かべて賜り、「橘は人の好む果実、その葉は霜雪にもしぼまず、その実は金銀珠玉よりも美しい。よって汝に橘姓を賜う」という詔(みことのり)がありました。それから三千代は県犬養という姓を改めて橘三千代と称して、源平藤橘と並び称された橘氏の祖となったのです。

三千代は藤原鎌足の子、藤原不比等の妻になり、のちに聖武天皇の妻となる光明皇后をお生みになりました。皇后は姿も心もたいへん美しいお方で、絹衣を透して光輝くばかりであったところからその名がつけられたと伝えられています。非常に慈悲の心が深く、薬院や悲田院を自ら営まれ、庶民にも深く慕われました。藤原氏が大いに栄えたのも、その一半は美千代の功績によるものと言われています。

橘は
実さへ 花さへ
その葉さへ
枝に霜ふれどいや常葉の樹

橘の花

橘が青々としていつも変わらない常葉であるがごとく、本学園もまた常に発展することを願って、法人の名称を「常業学園」と名づけました。(現在は、法人常葉大学)

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