常葉大学付属常葉中学校・高等学校

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創立記念式典

6月6日(土)に創立記念式典が行われました。

例年は体育館で全校生徒そろって式典を行っていますが、今年度はコロナ対策として、各クラス教室で放送による式典となりました。

校長先生が放送で、学園の歴史や、創立者がピアノを購入したときのエピソードを紹介してくださいました。その時のピアノは「遺愛のピアノ」と呼ばれ、今もなお本校の正面玄関に飾られています。

 

【創立記念日式典(66日)校長式辞】

6月8日に創立記念日を迎えるにあたり、お話をさせていただきます。

今や常葉関係の学校に通う生徒や大学生の数は、静岡県内で最も多いと言われていますが、元々は、74年前の1946年(昭和21年)に開校された静岡女子高等学院という小さな女学校が始まりでした。そして、この静岡女子高等学院こそがこの学校の前身であり、1952年(昭和26年)に常葉高等学校と校名が改められました。

私たちの学園の出発点となった、静岡女子高等学院の開校日である68日を創立記念日としていますが、この日は、創立者 木宮泰彦先生の開校に向けた並々ならぬ想いやそのご努力を、今いる先生方や生徒と確認し合い、学園の原点に立ち返る日と、私は捉えています。

 そこで、開校当時の様子や、開校に向けた創立者の想いを、皆さんにお話ししたいと思います。

その前にまず、皆さんに簡単な質問をします。第二次世界大戦が終わったのはいつだったか答えられますか。(1945年ですね。)

もう一問、先ほどお話ししましたが、この学校の前身である静岡女子高等学院が開校されたのはいつだったか覚えていますか。(1946年でしたね。)

つまり、終戦の翌年に静岡女子高等学院が開校されたということになります。

終戦直後の日本の状況は皆さんもご存じのとおり、敗戦によって誰もがどん底の状態にありました。そんな中、当時の静岡に、女子の高等教育を行う機関が一つもなかったことを憂い、創立者は「若い女性の向学心に応えよう」と、既に60歳の還暦を迎えようとする年齢で、静岡で唯一の「女子のための学校」を立ち上げたそうです。

新しく学校を立ち上げるにあたり、問題は山積みでした。校舎を建てる資金もないため、何とか浅間神社の一部を借り受けましたが、机もそろわず、黒板は浅間神社からお借りし、下駄箱は臨済寺というお寺から譲り受けた物を使用しました。その他、テーブル、座布団、茶器などは自宅の私物を持ち込んで、急場をしのいだという話もあります。

今日は、創立者 木宮泰彦先生のたくさんある苦労話の中から、ピアノを購入した時のエピソードをご紹介したいと思います。

ある日、泰彦先生は、女生徒たちが放課後や昼休みに、グループで美しいコーラスをしているのを見て、「子供たちに、何としてもピアノを1台買ってあげたい。」と考えていました。そこで、戦後で十分操業ができていなかった、浜松の日本楽器株式会社を訪ねました。いろいろ交渉しましたが、アップライトピアノでも、新品は3万円ほど出さなければ買えませんでした。当時の授業料が1か月30円だったそうなので、その千倍に当たります。今の授業料で単純計算すれば、45百万円ほどになるでしょうか。泰彦先生は学校の財政上、3万円をピアノに充てることは難しいと考え、やむなく中古のピアノを探すことにしました。

そんなある日、静岡市内のある大工場の亡くなった奥さんが愛用していたピアノが8千円で売りに出されていることを聞きました。そこで、泰彦先生は八方手を尽くし、やっとのことで8千円の現金を調達し、すぐに工場長のお宅を訪問しました。ところが工場長は、やや困った顔つきで「木宮先生、すでにある映画館など、数カ所から高値で買い入れたいという申し込みがあったので、残念ながらお譲りできなくなってしまいました。」と言います。泰彦先生からすれば、それは約束が違うし、やっとの思いで8千円もの大金をかき集めたのだから、簡単に引き下がるわけにいきませんでした。

「そんな不義理なことを言わず、ぜひ譲ってください。高値といいますと、いくらならお譲りいただけますか。」

「映画館の方では、1万円以上で欲しいということです。」

いくらお願いしても、工場長は簡単には聞き入れてくれそうにありませんでした。

そこで泰彦先生は、「このピアノは、亡くなった奥さんが毎日弾いて楽しんだ遺愛の品でしょう。たとえ高値で買い取られても、遠くの映画館などに持ち去られてどうなるか分かりませんよ。私の学校へ譲ってくだされば、毎日、美しい清らかな心を持った生徒たちに愛されることでしょう。亡くなった奥様の霊も、きっと喜ばれるはずです。」と言って諭しました。

さすがの工場長もしばらく考えていましたが、「先生、よくわかりました。約束どおりお譲りしましょう。」と言い、即座に8千円で譲ってくれたそうです。

こうして念願のピアノを手に入れたことにより、泰彦先生が出勤する頃には、早朝から練習するピアノの音が朝もやの中から聞こえ、昼には生徒たちの美しい合唱が聞こえてくるようになったそうです。このピアノは、明治の初めにドイツから輸入された部品で、横浜のある会社が作製した物で、今ではとても珍しい骨董的価値のある逸品だと、河合楽器の専属調律師の鑑定を受けた物だそうです。

今、このピアノが、この学校にあることを知っていましたか。玄関を入ったところにあるグランドピアノの奥に、ひっそりと置かれています。どんなピアノか思い出せますか。「遺愛のピアノ」と呼ばれていますが、「遺愛」とは「亡くなった方が大切にしていた」という意味です。このピアノを、誰が大切にしていたのか、皆さん、もうお分かりですよね。このピアノを譲ってくださった、ある工場長の奥様であり、もうお一人、生徒のために必死になってこのピアノを手に入れた、木宮泰彦先生でした。

今はもう弾くことはできませんが、当時の生徒と同じように、皆さんにもこのピアノに気持ちを寄せていただければ、泰彦先生もきっと喜んでくださると思います。

今日の話を聞いて、そんな時代を経て、今の私たちの学校があるということを、皆さんに少しでも感じていただければ幸いです。

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